タイ王国:死の鉄道(日本軍の負の遺産)

 

 タイ王国の首都バンコクから西に130キロばかり行ったところに、カンチャナブリー県の県庁所在地であるカンチャナブリー市はある。夏の猛暑で知られるカンチャナブリー県には、第二次世界大戦中に日本軍が残した、悪名高き「死の鉄道(Death Railway)」の一部が残っている。

 

 「一部が残っている」というのは、この路線は完成直後に連合軍の攻撃で破壊され、現在に至るまでタイ王国とミャンマーとを結ぶこの路線は、分断されたままであるからだ。

 

 第二次世界大戦中、日本軍の一部が行なった蛮行は、アジア諸国に深刻な爪痕を幾つも残しているが、その内の一つに数えられるのが、このカンチャナブリー県にある「死の鉄道」であろう。

 

 カンチャナブリー市を流れるクェイ川に架かる鉄橋は、その「死の鉄道」の路線の一部であった場所であり、今日でも鉄道が運行されている。また、ここは鉄道が運行している時間帯ですら、鉄橋の上を歩いて観て回れる「タイ王国らしいゆるさ」も人気で、「負の遺産をめぐる観光地」としても名を馳せている。    

※この画像はウィキペディアから拝借しました。

 

 「死の鉄道」とは、日本軍がタイ王国のバンコクから、お隣のミャンマー(当時はビルマ)を繋ぐ鉄道路線を連合軍の戦争捕虜と、地元アジア人を動員して強行軍で作らせた路線を指す。当時のイギリスが「鉄道空白地帯の415キロの同区間」に、鉄道施設するのにかかると見積もった工期は「6年」だが、日本軍はこれをなんと「20ヶ月」でやってのけた。

 

 当時の日本軍には、今日の日本のような技術力は無く、タイに派遣されていた日本軍の将兵たちにも、鉄道技術に長けた者はいなかった。では、どうすれば鉄道先進国であったイギリスが「6年」と見積もった工期を、鉄道建設への経験・知識、資材も劣る日本軍が「20ヶ月」などという短期に収めることができたのであろう。それは、「戦争捕虜をとてつもなく過酷な環境で連日酷使することによって実現された」のであった。

 

 また、日本軍のずさんな運営管理のために、正確な統計は謎になっているが、ある統計では、この「死の鉄道」にて命を失った連合国の捕虜は12800人、アジア人の労働者(捕虜やそれに準ずる要員)は9万人、合計10万人以上がこの「死の鉄道」の建設で命を失ったとされる。

 

 「まともな食料のない捕虜たちと、しっかりと食事をとっている、肥えた日本兵たちのコントラストが際立っていた」と生き残った連合国側のオーストラリア人捕虜は語っている。またここでも、日本の軍人による捕虜への執拗な殴打、従軍慰安婦の存在が認められている。

 真夏のカンチャナブリー県は40度を超える猛暑であり、また雨季には140日間も雨が降り続けたという。 その中を毎日、キャンプ・サイトから多くの捕虜たちは「素足に褌(ふんどし)」という出で立ちで、荒い未舗装の道を片道6キロも歩いて作業場まで行き、毎日平均800メートルもの鉄道をミャンマー(ビルマ)側・タイ側の両方から強制労働で造らされていった。

 

 病気の者は強制労働が免除されたというが、日本軍による「病気かどうかの判定基準」は、「50%以上の血便」という途方もない基準であり、結果的にこの地で10万人もの捕虜たちが命を失ったのである。

 カンチャナブリー市の中心には、共同墓地がある。実際にここを訪れてみて、ここの墓標に刻まれた多くの若い兵士たちの年齢を見ると、そのほとんどが20歳前後、これには日本国籍の者を黙らせるだけの無言の力がある。

  

 

日本人の知っておくべき場所の一つ

 

 

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