前回「東京紅葉散歩 その肆」の続きです。
皇居東御苑を大手門から退苑すると、目の前はすぐ大手町である。
大手町・丸の内は、言わずと知れた「日本の金融・商社・マスコミなどの本社」が軒を連ねる一角だ。かつて、日本がまだ先進国であった頃、大手町・丸の内が世界経済に大きな影響力を持っていた時期もあった。
しかし、日本がずるずると後進国に後退すると、そうした「兵(つわもの)」たちの持つプレゼンスもずっと低下してしまった。「まだまだブイブイ言わせるよ」と空元気な企業もあれば、「うちのとこって、前はすごかったよね」という想い出モードの企業も少なくない。
前回の「東京紅葉散歩 その参(北の丸公園)」からの続きです。
北の丸公園から代官町通りを渡り、一般の訪問が可能な「皇居東御苑」を目指す。北の丸公園からだと、最寄りの出入門は「北桔橋(きたはねばし)門」となる。他に皇居東御苑への一般アクセスは、大手門・平川門とがある。月曜・金曜が休園日となる変則的なスケジュールであることを頭に入れておこう。
各門の前では皇宮警察による持ち物チェックなどがあるので、入園に支障となるような物を持って行くのは、やめておいたほうがいい。
前回「東京紅葉散歩 その弐(靖国神社)」からの続きです。
靖国神社への束の間の訪問を終え、靖国通りを北の丸公園の入口へと向かい下る。ここ千鳥ヶ淵のお堀は、桜の時期には大変に美しく、またそれ以外の時期に訪れてもよいものである。
靖国通りの緩やかな坂道を北の丸公園の入口である田安門に向かい歩いていくと、北の丸公園入口のあたりに高燈篭が見えてくる。下は石垣、上部に見晴台と大きな燈篭が設置されており、和洋折衷のようなデザインに心躍らされる。
前回「東京紅葉散歩 その壱(飯田橋〜靖国神社)」からの続きです。
靖国神社の大鳥居の下をくぐる時、「異世界に入る」ような気が少しする。大鳥居への坂道、そして身体感覚からしてずっと巨大な建造物を目の当たりにすると、人間は「大きなもの」の存在を否応なしに感じさせられる。ここはそのように設計されているのであろう。
多くの西欧の教会が闇雲に巨大であったり、仏教国のミャンマーの寺院や仏像が、その国力とは明らかに不釣り合いに巨大なのは、「大きなものを感じさせる」という宗教上の狙いがあるからに他ならない。これが分相応にコンパクトにまとまっていたならば、宗教や寺院の持つ権威は、相対的に今日のそれよりも小さなものになっていただろう。
先日、わりと天気が良かったので、都内中心部の紅葉具合を確認に歩いた。新調したiPhone 12の試し撮りも兼ね、飯田橋から靖国神社、続けて北の丸公園を抜けて皇居東御苑、大手町・東京駅から銀座へと散策してみた。
「マレーシアの古都、世界遺産の街マラッカ」について書いています。
前回、「マラッカを台無しにしている典型例」として、「リクシャー軍団がマラッカの街の空気をどれだけスポイルしているか」を書きました。今回はよりハードな事例を紹介します。それは、「都市開発」です。
前回から、「マレーシアの古都、世界遺産の街マラッカ」について書いています。
マレーシアの古都、世界遺産の街マラッカには、「Don’t Mess with Melaka(マラッカをダメにするな)」と政策標語がある。今回と次回、そんな「世界遺産の街マラッカを台無しにしている典型例」をご紹介しよう。まず今回は、ソフトな方から。
数百年の歴史を持つマレーシアの古都マラッカ。今日、マレーシアの首都はクアラ・ルンプル(以下KL)であるが、首都KLは歴史の浅い街である。
「マラッカ連邦」として1957年にイギリスから独立、1963年にシンガポール州、ボルネオのサバ州及びサラワク州の三州を加え、「マレーシア連邦」として成立。イギリスからの独立当初の名称にもある通り、「マラッカ」はこの地域の中心的な街であった歴史を持つ。
ベトナムのサパの中心部から、徒歩で30分ばかり坂を下ったところに、「cat cat」という名の村がある。ベトナム語での綴りが「cat cat」なので、沢山の猫がいる村なのかと勘違いして小躍りしたが、「キャット・キャット」ではなく、「カット・カット」と読むのが正しいのだそうだ。紛らわしい。
前回、「風情がなくなりつつあるベトナムはサパ」について書きました。今回はその続きです。
サパまで辿り着いてみると、身なりの少しずつ異なる少数民族の衣装を着た女性たちがいることにすぐに気がつく。
ぱっと見、似たような衣装なのであるが、縞の多さやスカートの丈の長さ、ズボン状の衣装を合わせていたり、長いソックスを履いていたり、帽子の有無、髪を部分的に剃っている、剃っていないなどで、当の少数民族の女性たちは、一瞬で「他民族」だと見分けがつくらしい。言葉も民族によってそれぞれに異なるが、ここでは共通語のベトナム語で会話をしている。
これはベトナムの北にある中国大陸の54民族についても、同じことが言える。それぞれの方言はお互い理解不能な程に異なるが、共通語の普通話(プートンフア:マンダリン)で意思疎通している。
ベトナムの観光地で人気を二分するのが、ベトナム中部にある世界遺産の街ホイアン(Hoi An)と、中国との国境にほど近いベトナム北西部にあるサパ(Sa Pa)である。
ベトナムの鉄道網はとてもシンプルである。北東の広西省に面するDong Dangの駅から、南のサイゴン(ホーチミン)へと南北を横断する路線が主線であり、それ以外は、首都ハノイから北は中国雲南省と国境を接するLao Caiへと向かう支線がある程度だ。Y字のような鉄道網である。
今日、中国の広西省との国際列車は通じているが、雲南省との国際列車の乗り入れは中断したままになっている。
曲がりくねったチャオプラヤー川とその支流の川面は、多くのバンコキアンたちの通勤・通学の「道」として、現役の船が行き交い活気がある。
人それぞれ、好きな船着場の景色やその界隈の雰囲気があると思うが、私が特に思い入れの深い船着場は、バンコク最古のお寺であるワット・ポーと王宮の裏手にある、ティエン船着場界隈だ。
前回、「普通の街になりつつあるチェンマイ」という感慨を書きました。
今回は、そんなチェンマイにある素敵なカフェについて。
すでに普通の街ではあるチェンマイにも、「これは!」というカフェを見つけることはできる。チェンマイでは有名な「Ristr8to Coffee」がそれだ。
タイ王国のチェンマイは、バンコクについで王国第二の都市として勢いのある地である。しかし、「ここは!」という見所がないのも、バンコク譲りである。観に行った人の多くががっかりすると言われる市内中心部にある「ターペー門」、山の上の「ドイ・ステープ寺」(寺はいまいちだが、景色はそれなりに良い。外人料金30Bを徴収する辺りがタイ人らしい)など、肩透かしを喰らう。
タイ王国の北西地域、ミャンマーと国境を接する辺りに、マエホンソン県はある。ここは多くが森林に覆われた緑豊かな土地であり、タイ王国の中でも、自然が多く残された場所として有名だ。訪れる人の多いチェンマイ県、チェンライ県の西側に位置する。
10年ばかり前まではタイの中でも最も穏やかな顔をもつ地として知られていたが、昨今では中国大陸からの旅行者が大挙しており、様相を変えつつある。
以前「バンコクで有名なゲイ・ストリート」について前に書きました。今回はその派生編です。
かつて、ラオスからタイへと向かう旅路で知り合った中国人の旅人タイガーと、バンコクの宿で知り合ったアメリカはサンフランシスコ出身のケイトを連れ、バンコク一有名なゲイ・ストリートであるシーロム・ソイ4、パッポンのレディー・ボーイ(LB)のお店、最後にハードな方のゲイ・ストリートと梯子をしたことがある。
パッポンはどこもドリンク代が150Bに値上げされており、女性やLBへのドリンク代は200Bとなっていた。時代の流れを感じる。今はもっと高いのだろうか。
タイ王国の裏山、ラオスについて書いています。
首都ビエンチャンからバスで3時間ばかり北上したところに、川遊びで有名なバンビエンはある。バンビエンには欧米のバックパッカーを中心に、多くの若い観光客が集まる。川遊びや飲んだくれる以外に特にやることもない町なので、 旅人にとって一日に何度かの食事は大切なイベントだ。安くて美味いものに当たればその日は気分よく過ごせるし、その逆であれば、気分を回復するのに時間がかかるかもしれない。
ラオス北部、人口25000人ほどの小さなバンビエン(Van Vieng)の町は、自然と他の旅人との邂逅を楽しむバック・パッカーで溢れている。
この町の東を南北に走る国道13号線沿いには、かつての米軍の飛行場の滑走路跡が剥き出しで鎮座し、そこから西側のナム・ソング川にかけて安宿や飲食店、マッサージ店が集まった地域が形成されている。
ラオスの古都ルアンパバーンについて書いています。
前回「コウアンクシーの滝」を紹介しました。今回はその続きです。
コウアンクシー滝を訪れる大多数の観光客は、最大の見所である比較的大きな滝を観た後、満足してルアンパバーンの町へと帰路につく。しかし、全体の1割以下か5%程度の旅人たちは、さらに上流に遡る道を選ぶ。