『東京百景』 又吉直樹

 

 2015年以降、一躍時の作家となった、お笑い芸人であり作家でもある又吉直樹さん。彼の作品である『東京百景』『夜を乗りこえる』、そして300万部というベスト・セラーとなった『火花』を遅ればせながら読んだ。

 

 現在、巷で話題となっている『劇場』は、まだ手に取っていない。東京の100の心象風景を集めた『東京百景』を最初に読み、続けて『夜を乗り越える』『火花』と読んでみた。「この人は(日本文学という範疇の中では)本物だ」とよく分かったので、いずれ『劇場』や他のエッセイ集なども読むことになるだろう。

 

又吉さんは1980年大阪生まれの東京吉本に所属する芸人である。高校卒業後に東京へと上京、風呂なしトイレ共同の古く粗末なアパート暮らしをしばらくしていたという。その頃からの「東京の心象風景」を百景集めたのが、本書『東京百景』である。

 

 一つ一つの風景は、数行の詩のようなものから、数ページになる掌編まで長さもまちまちだ。それも、実際にあった経験談、又吉さんの頭の中で作られた幻想風景、その両者が絡み合った物語などで構成されている。

 

 百景も終盤へと進むにつれて、少しずつ芸人としての活躍が軌道に乗りつつあるのが感じられる。本書での自虐的なネタとして、うだつの上がらない貧乏であった頃の又吉さん自身を笑いの対象とする手法も、嫌味がない程度に通底している。また、吉本の養成所を卒業し、プロの芸人としてやっていく又吉さんと、芸能界をそれぞれの事情で去っていった元芸人たちとの「やり取りの記憶」も散りばめられている。

 

 又吉さんが今日、世間で「芸人であり作家」と認知されることは、かねてから交流のあった作家・中村文則、1936年生まれの大家・古井由吉などからも、「彼(又吉さん)は、いずれくるな」と思われていたのではないか。

 

 第95景目の「新宿5丁目の文壇バー『風花』」の一節を紹介しよう。古井由吉さんの朗読会に参加した時のこと。すでに古井さんとは顔見知りであった又吉さんが整理券の番号通りの座席に座ると、カウンターの座席であったという。

 

 古井さんは僕を見つけると「またさん来てたんだ」と声をかけてくださった。予期せぬ一言にハッとした。(中略)

 

 舞台に上がる芸人と観客との間には、言葉では説明できない境界がある。舞台に上がる当事者は眼に見えない法衣を身に纏い、その力によって日常と乖離した舞台という場に立てるのだ。その霊力によって衆目に負けず、人前でも声を出せる。そう思っていた。

 しかし、古井さんは目に見えぬ法衣など着けず裸で舞台に上がられていた。舞台と客の関係性に日常を放り込めるというのは特殊な能力だと思う。日常でも文章上でも境界を軽々と越えられる方なんだと改めて思い知らされた。

- Advertisement - 広告

 

 又吉さんは作家になる前から、プロの芸人としてキャリアをスタートしている。町田康さんがほぼ専業作家となる前にパンク歌手・役者としてのキャリアがあったのと同じように、二足三足のわらじを履きこなす人々は、軸がいくつもあるので作家としての作品にもよりくっきりとした彩りが与えられるのであろう。

 

 『火花』にしても『劇場』にしても、又吉さんのホーム・グラウンドの世界(とその界隈の演劇)が軸になっている作品である。今後発表されるであろう、アウェイの世界の作品がどのようなものになるのか、楽しみだ。

 

 出版不況が言われて久しいが、2000年代初頭に現れた町田康さん、2015年に『火花』を出した又吉さんは、日本文学界の救世主として「芸の世界からやって来た二人」であると言えるだろう。

 

確かな文章力