前回のブログ「ミャンマー:サガインの丘に登る」からの続きです。
終日のジープ・ツアーの続きです。
朝からジープ、ボート、馬車と乗り継ぎ、マンダレーからアマラプラ、サガインなどを観て回るツアーも佳境に近づいてきた。
森の中の僧院、アマラプラにあるバガヤ僧院は、19世紀から続くその美しい木造建築と「旅行客の好きそうなツボを押さえた演出」により、人気があった。
まず、僧院の敷地に入ると、マンダレーではほとんど残っていないような古く美しい僧院が姿を現す。この建物の威容だけでも、旅行者はすっかり打ちのめされるのであるが、内部を見て周るうちに、さらにその魅力に引きずり込まれることになる。
しかし、旅人ローゼン、日本人Tさん、そして私の三人の旅人が、最後にこのバガヤ僧院の「見せ場」となっている「小僧の教育部屋」を訪れた際に、なんとも言えない違和感を感じた。
表面上は、いかにも「古くからここで修行や教育をしています」感は出ているものの、実際の修行・教育風景を窓の隙間から垣間見るのではなく、旅行者はその教室の中にまでズカズカと入っていくことができ、また小僧達と一緒の小さな机と椅子に腰掛けて、写真を撮ることもできるのである。
バガヤ僧院を訪れている間、その違和感がどこから来るのか、考えていたのであるが、振り返ってみると、やはりその「旅行者への妙な演出感の濃さ」がその根っこにあるようだ。
これはいくらなんでも、不自然すぎる光景である。特に、集中力の乏しい子供たちであると、これだけ入れ替わり立ち替わり外国人の旅行者やミャンマー人の参拝客・観光客が訪れていては、学びに身が入るわけがない。明らかに「写真を撮るため、撮られるためにそこに、小僧たちはそこに座らせられている部屋」であることが感じられた。
大人になった僧侶たちの飾らない生活風景は、まだよしとしよう。ただそこで生活をしているだけで、特段何かに集中しているわけでもない。しかし、まだ年端もいかない子供達は、そうもいかない。珍しい外国人や外部からの観光客・参拝客に、気が散って仕方がないようであった。
案の定、この部屋でちゃんと勉強をしている子はほとんどおらず、皆が注意力散漫であり、訪れる外国人と写真を撮ったり、袈裟を着てそこに座っていることが彼らの仕事となっており、こうした子供の頃から「宗教ビジネス」の一部にされるうち、純粋な心はすっかりスポイルされ、お隣のタイ王国などでよく見られる「金ばかりを追い求める守銭奴僧侶」とならないか、些か心配である。
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守銭奴の量産とならないことを祈る
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