ミャンマー:やがて哀しき王宮跡

 

前回のブログ「道すがらの軍部の検問所」からの続きです。

 

 

軍部による検問所を過ぎ、少しするとジープ・ツアーの三箇所目の「王宮跡」に着いた。

 

1859年に時のミンドン王によって建設された王宮は、1885年の英緬戦争の後、大英帝国に併合されるまでの26年間という短い間、ミャンマー最後の王朝の王宮として存在していた。マンダレーという人工的な王宮都市を作ってすぐに、大英帝国の植民地にされてしまったというわけである。

 

当時の王であったティーボー・ミンと王妃スパやラットは王宮から退去させられ、インドに亡命し、そこでも幽閉生活を送ったという。中国北京の紫禁城から中国最後の皇帝である溥儀が退去させられ、その城を日本軍に明け渡したのと同様のことが、19世紀後半にもミャンマーのマンダレーにて起こっていたのであった。

 

その後、大英帝国統治の時代を過ぎ、第二次世界大戦となると、今度は日本軍が中国の補給線を断つためにやってきた。インドシナを占領した日本軍は、タイ王国のバンコクからミャンマーのヤンゴンまで、多くの戦争捕虜を使って物資を運ぶ鉄道の建設を急がせ、過酷な労働環境のために数万人もの捕虜が日本軍に課された役務や疫病によって殺された。

 

その記念館や墓地は、今もタイ王国のカンチャナブリー県に点在し、大日本帝国政府・日本軍の過去の大きな過ちを無言の圧力で問いただす存在としてそこにある。

 

 

かつて栄華を誇ったであろうマンダレー王宮は、まず大英帝国の支配下に入った段階で、多くの財宝が略奪され、その多くが英国の博物館に今日も展示されているという。また、第二次世界大戦の日本と連合国との戦火により、マンダレー王宮は土台以外全て焼失したという。

 

現在、この地に建っている王宮跡は、1980年代に入ってから再建された「王宮のレプリカ」であり、歴史のある本来の王宮建築は全く存在しない。

 

王宮跡を歩いてみると、レプリカの建物の配置はかつての王宮建築群のその場所にあるようだが、一つ一つの建築は、安っぽいB級映画の撮影セットの建物のような、予算の都合でペラペラな感じの建築であるのが、観ていてなんとも痛々しいものであった。

 

ジープ・ツアーで訪れた二箇所目の木造建築の美しいシュエナンドー僧院のような建物群が、かつてはこの王宮にも建ち並んでいたのかと想像すると、失われてしまった物の価値の大きさに愕然とする。中国、韓国、香港、マカオ、台湾、フィリピン、インドネシア、ベトナム、タイ、シンガポール、マレーシア、そしてミャンマー。東アジアから東南アジアにかけて、第二次世界大戦の大日本帝国・日本軍による負の遺産、負の歴史のある場所を訪れるにつけ、なんとも居心地の悪い思いをしてきた。

 

そして、それらの国々・地域において、日本人である自分をも暖かく迎えてくれる市井の人々の寛容さに感謝しつつ、過去の歴史の重みを少しずつ自分の心身に染み込ませてきた。

 

ベトナム戦争以降、東アジア・東南アジアにおいては大きな国際紛争が起こってこなかった。しかし、その火種はミャンマー、中国新疆・チベット・香港、台湾、フィリピン、北朝鮮、日本、韓国、ベトナムなど、実はいつ起こってもおかしくないピリピリとした緊張状態にあるのが恐ろしい。

 

 

21世紀になっても、知的・倫理的に全く進化していない人類。

 

「人間の愚かさを過小評価してはいけない(Never underestimate human stupidity)」とは歴史学者ユバル・ノア・ハラリの言葉であるが、残念ながらこの言葉の重みが今日も増している。

 

 

 

次のブログミャンマー:マンダレーのマハムニ寺」に続けます。

哀しいことに、マンダレー王宮は土台と堀以外すべてレプリカ

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