ミャンマー寺院の特殊性

 

前回のブログ「ミャンマー・マンダレーと中国北京の類似性」からの続きです。

 

 

タイ王国はバンコクからマンダレーまで直行便で飛び、空港から乗合バンに乗ってマンダレーの街中まで移動した。「袖振りあうも多生の縁」とばかりに、旅人ローゼンと同じ宿でツインの部屋をシェアすることになった。振り返ってみると、バンコクからのフライトで、すでに旅人ローゼンとは同じ便に乗っていたことになる。宿を確定後、その足ですぐにマンダレーの街を散策し、マンダレー王朝の王宮跡の北部にあるマンダレー・ヒルへとたどり着いた。

 

マンダレーの街は、ブッダの「仏教の2400周年の祝祭の機に、偉大な都市が現れるであろう」との予言に基づき、それを実現させるために1859年に時の王ミンドン・ミンによって創られたのが起源という。

 

通常の都は、小さな村落から町へ、町から街へと規模が拡大し、最後に大きな都になっていくものである。しかし、マンダレーの場合は、標高236メートルのマンダレーの丘の麓にあった平原に、「ブッダの予言を叶える」という目的のもと、人口的に都市をつくったというのが面白い。ヤンゴンに次いで、ミャンマー第二の規模の都市であるマンダレーには、2005年の時点で中心部に人口約93万人を数え、周囲まで含めると214万人もの人口となっていたようだ。

 

そして、2時間ほど前に空港の乗合バンで知り合った旅人ローゼンと私は、そのマンダレー・ヒルの麓に立ち、この丘の頂きを目指し、いざ歩みを進めるところであった。

 

ミャンマーで初めて参拝する寺院が、ミャンマーでも各式の高い寺院であったのは、たまたまである。しかし、その後ミャンマー各地で多くの寺院を訪れる際に、参考となることをここで最初に学ぶことができた。

 

 

まず、有名な寺院においては、(1)外国人は入場料が必要である。そして、(2)(神聖だと考えられている)寺院の境内を参拝するには、靴を脱ぐだけでなく、靴下も全て脱がねばならず、素足でのみ境内に入ることが許される。

 

 

まず、(1)の外国人料金は、よしとしよう。ミャンマーにおいては寺院のみならず、多くの観光施設においても、「外国人料金」というものが存在する。ここはもう「そういうものだ」と諦め、素直に提示された金額を払うか、かなりの労力を払って誰もいない場所からどうにかして入るしかないが、チケットのチェックを抜き打ちでされる心配が常につきまとう。

 

ミャンマーにおいて、おそらく多くの外国人が納得できないのが、(2)素足で寺院に入る、ということだろう。なぜか?境内が汚いのだ。

 

 

「神聖な寺院に入るのに、靴を脱いで素足になるのが当たり前」という教えは、まだ良しとしよう。しかし、その「神聖な寺院」がミャンマーのどこの寺院に行っても、最後にいつ掃除がなされたのか分からないほどに、かなり汚いのだ。

 

「神聖な寺院の床が汚いとは罰当たり者め、汚いというのは貴様の心が汚いのだ」と罵倒されそうであるが、やはり汚いものは汚い。ミャンマーの寺院を裸足で参拝すると、出てくる頃には靴下を履き直すのが嫌になる程、足の裏が真っ黒に汚れている。特に、マンダレー・ヒルのように大きな寺院となると、歩く動線も長くなり、汚れは足にしっかり付着していく。

 

イスラム教のモスクのように、手足を清める洗い場が入口に併設されているならまだしも、そうした設備は見当たらない。自分でウェット・ティッシュやペットボトルの水などを用意し、参拝後に気が済むまで足を拭うしかないのだ。

 

「神聖な場所なら、もう少し綺麗にしておいてほしい」と願うほうが野暮なのかもしれないが、ミャンマーの寺院の床や吹きさらしの境内は、かなり汚いことを覚悟の上、訪れなければならない。そう心の準備をしておくと、「思っていたよりも汚くなかった」と逆に安堵できるかもしれない。

 

 

 

次のブログ「マンダレーの丘に登る」に続けます。

 

もう少し清潔にできないものか

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