※本ブログの内容は、私が初めてウクライナを訪問した2014年当時の内容です。
ご存知のように、現在ウクライナはロシアによる侵略戦争を受け、大変な状況にあります。連日ニュースで伝わってくるのは、過酷な戦渦の内容が多いです。「比較的平時のウクライナの素顔」を伝える目的で、過去の旅の内容を綴っています。
ウクライナの西都リヴィウ。街の中心部は世界文化遺産にも指定される稀有な歴史と文化を誇る古都である。
初めてのウクライナ訪問時に、まずこのリヴィウという名の西都に立ち寄ることにしたのは、「文化遺産があり、ロシアとの紛争が活発化していた東部からずっと距離があり、比較的安全な西部の地域である」ということもあった。

リヴィウには5世紀にはすでに人が住んでいたと言われており、ポーランドから70キロという位置にあることから、歴史の波に揉まれ10世紀頃からはポーランド公国の領土であったこともある。
その後、リヴィウはウクリアナ・コサック、スウェーデン、オスマン帝国などの襲撃を受け幾度か傷つき、オーストリア帝国に帰属するなど紆余曲折を経て、1914年、第一次世界大戦中にはロシア軍に占領された。さらに翌1915年にオーストリア=ハンガリー帝国により奪還され、同帝国が消滅すると1918年には西ウクライナ人民共和国の独立を宣言し、リヴィウはその首都となったという。
さらに、ポーランドとロシアの戦い、第二次世界大戦のドイツ軍による包囲、世界大戦後はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土となるなど、その歴史的な変遷は目まぐるしいものがある。レヴィウの歴史を紐解いてみると、あちらの国、こちらの国とその帰属先がコロコロと変わってきたのである。

さて、リヴィウは学術的な面でも有名な街である。街の中心にある「(イヴァン・フランコ記念)リヴィウ国立大学」などは、リヴィウがまだポーランド領であった1661年に創立された大学であり、ウクライナ最古の大学でもあるという。リヴィウ大学は、現存するアジア最古の大学と言われるフィリピン・マニラの聖トマス大学の1611年と同等の歴史を有するのだ。日本最古の東京大学でも1877年の設置なので、リヴィウ大学は東大と比べても、200年以上も歴史のある古い大学となる。

街の中心部を歩いてみると、確かにリヴィウ大学やリヴィウ工科大学の学生たちが多く闊歩しており、学際的な雰囲気のある街であることが感じられる。私がリヴィウで最初に友人になった学生たちは、リヴィウ工科大学の学生たちであり、後日リヴィウ大学の学生たちとも知り合うことになった。
また、リヴィウのカフェ文化は夙に有名で、いくつものユニークなカフェがリヴィウ旧市街のあちこちに軒を連ねる。東欧の中でもモルドバ同様、ウクライナは物価が低めに安定した地であると知られており、飲食などはリーズナブルに愉しみやすい街でもあった。
次のブログ「面倒見の良いウクライナの学生たち」に続けます。

懐かしいリヴィウ
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